松陰神社・2020年8月2日

松陰神社

 

世田谷区若林四丁目にある神社。幕末の思想家・教育者である吉田松陰、及び彼の門人である伊藤博文山県有朋はじめ、松下村塾の生徒を祭神とする。学問の神として崇敬を受ける。社格等は府社。創建は明治15年(1882年)。f:id:Ryugnan:20200802230224j:plain

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鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった。松陰が安政の大獄で刑死した4年後の1863年文久3年)、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬された。1882年(明治15年)、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は1927年から1928年にかけて造営されたものである。f:id:Ryugnan:20200802230303j:plain

松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太

郎、乃木希典井上馨青木周蔵などの名前が刻まれている。松下村塾を模造した建物、頼三樹三郎広沢真臣らの墓もある。松陰らが眠る墓域は幕末時代、徳川勢により一度破壊されたが、明治元年(慶応4年)、木戸孝允がこれを修復整備した。墓域には現在も、木戸が寄進した鳥居が残っている。また、敷地に隣接する形で桂太郎の墓もあるが、案内が不十分なこともあり、参拝者は少ない。桂自身の遺言により、この地に埋葬された。f:id:Ryugnan:20200802230320j:plain

 

鳥居f:id:Ryugnan:20200802230337j:plain

 

参道f:id:Ryugnan:20200802230401j:plain

 

社殿

神社創建時に伊藤博文山縣有朋井上馨乃木希典、等によって造営された社殿は現在本殿の内陣となっている。現在の社殿は昭和2年~3年にかけて、明治の元勲や崇敬者の方々によって造営された。

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吉田松陰先生像

明治23年に大熊氏廣氏によって製作された吉田松陰先生像から平成25年に鋳造されたブロンズ像。もとの石膏像は品川彌二郎等の助言を受け数度の改作の後、松陰先生親族等の満足を得るに至り完成したと伝えられている。当時銅像の建設を模索したが叶わなかった。松陰神社ご鎮座130周年(平成24年)の記念事業として東京藝術大学に依頼し、ほぼ一年をかけ石膏像の調査修復及びブロンズ像の鋳造を行った。平成25年4月完成。同27日の春季例大祭にあわせ完成除幕式が行なわれ境内に安置された。f:id:Ryugnan:20200802230514j:plain

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松下村塾

松陰先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進天保13年(1842年)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こり。塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857)まで引継いだ。その後、松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで続いた。(玉木氏は明治9年死亡)f:id:Ryugnan:20200802231153j:plain

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松陰先生は嘉永5年(1852年)23才の時は半年ほど、安政2年(1855年)26才の冬出獄してから安政44(1857年)11月迄、杉家で子弟を教育していた。この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し師弟同行の実際教育を指導した。f:id:Ryugnan:20200802231217j:plain

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塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858年)3月、十畳半の増築が行われた。松陰先生が名実共に公に認められたのは、安政5年7月、先生29才の時、藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄連座し投獄されるまでの5ヶ月の間のことだった。実際に先生が塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2ヶ年半程であった。松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ90名前後と言われており、明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名。本神社にある松下村塾山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したもの。f:id:Ryugnan:20200802231426j:plain

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松陰先生他烈士墓所

境内墓域には、吉田松陰先生の墓碑をはじめとして、頼三樹三郎、小林民部、来原良蔵、福原乙之進、綿貫次郎輔、中谷正亮、其の他烈士の墓碑がある。 文久3年(1863年)正月、高杉晋作伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松陰先生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓(紅葉)の木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。禁門の変の後、長州征伐の際に幕府によって松陰先生以下の墓は破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868年)に松陰先生以下の墓を修復し、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑を建立しました。 f:id:Ryugnan:20200802231619j:plain

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徳川家奉納の灯篭と水盤f:id:Ryugnan:20200802231921j:plain

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楽殿

昭和7年、旧府社に昇格する際、毛利家より寄贈されたもの。平成12年には大改修され増築された。f:id:Ryugnan:20200802230454j:plain

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社務所

現在の社務所は平成8年~平成9年にかけて造営されたもの。f:id:Ryugnan:20200802230956j:plain

 

 

松陰神社道の道標f:id:Ryugnan:20200802231956j:plain

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