厳島神社(世界遺産、国宝)

厳島神社

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大鳥居

本社火焼前より88間の海面にそびえる朱塗りの大鳥居は、奈良の大仏とほぼ同じ高さの16m、重量は約60t。主柱は樹齢500~600年のクスノキの自然木で作られており、8代目にあたる現在の鳥居を建立するにあたっては、巨木探しに20年近い歳月を要した。また根元は海底に埋められているわけではなく、松材の杭を打って地盤を強化し、箱型の島木の中に石を詰めて加重するなど、先人の知恵と工夫によって鳥居の重みだけで立っている。現在、修理中。

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入口

 

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客神社(国宝)

 

厳島神社の境内には読みにくい名前の御祭神や社殿があるが「客神社」は「まろうどじんじゃ」と読む。平清盛が現在の社殿群を創建した頃は、「客宮」もしくは「客人宮」と呼ばれていた。「まろうど」とは「客人」と書いて、客人をもてなすことを「まろうど」と呼称する。つまり、本殿で祀られている厳島神の客人をもてなす神様である。
厳島神社の客神社は、境内の入口に位置することから、この名前が付されたのであろうと推測される。f:id:Ryugnan:20191222174025j:plain

 

鏡の池

 

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東回廊・西回廊(国宝)

 

厳島神社の回廊は、御笠浜に造営された厳島神社の境内の東西を繋ぐ重要な通路となる。創建は1168年(仁安2年)で平清盛の発願によって社殿群と同時に造営されたもの。厳島神社の東西の回廊は本殿が位置する「寝殿」部分を中心とした「寝殿造り」を構成する主要素であり、東西回廊の総長は275mにも及ぶ。浜の入江に沿うような形で造営されているため、歪な屈折を繰り返しつつも、全体の景観の美しさを損なわず東西の社殿群を見事に繋いでいる。廻廊は幅4m、長さは約275m。床板の間に目透しという隙間があり、高潮の時に下から押しあがってくる海水の圧力を弱め、海水や雨水を海へ流す役目を果たしている。

東回廊(国宝)

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朝坐屋

 

厳島神社の朝坐屋は、平清盛によって実施された1168年(仁安3年)の大造営の際の記録に「朝坐屋」の記述が見つかったことから、1168年以前の建築であることが判明している。一説では、創建当初から存在していたとも云われているが定かではない。
ただ、朝坐屋の建つ位置が陸地付近に位置する事から「創建当初から当地に存在した」と言う説は極めて濃厚であると言う見方もある。建築様式を見る限りでは厳島神社の社殿群と遜色がなく、平安期の建築様式を伝えているが、現在見ることのできる朝坐屋の姿は、江戸時代の1615年から1660年の間に再建された時のもの。古文書による過去の記録では、江戸時代に「神職の会議」や「重要な会議」の場として使用されており、以降、昭和30年の後半から昭和40年初頭までは「厳島神社社務所」としても利用されていた。その他、現在では厳島神社での舞台での「舞楽」や「コンサート」時の「控え室」や「準備室」として利用されたりもしている。ただし、現在では朝坐屋に立ち入ることは叶わず、東回廊から見学のみ行うことができる。f:id:Ryugnan:20191222174606j:plain

 

右楽房

 

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右門客神社(国宝)

 

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左門客神社(国宝)

 

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左楽房

 

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火焼前(国宝)

 

厳島神社の平舞台のもう1つ大きな見所・特徴として大鳥居に向かって伸びるように造られており、この部分を「火焼前」と呼称する。現在の平舞台は1546年(天文15年)に厳島神社の神主であった棚守房顕によって造営されたもの。火焼前が設置された理由は、船着場にするためだったようだ、平安時代平清盛が現在の厳島神社を創建した頃にはなかった。つまり、平安時代以降に取り付けられたものになります。

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大鳥居

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平舞台(国宝)

 

寝殿造りの庭にあたる部分で、広さは167.6坪(約553平方メートル)。1176年(安元2年)、平氏一門が社参して千僧供養が行われた際、社殿の前方に仮廊を設けたという記録があり、こうした仮廊が常設となったもの。前方には火焼前と呼ばれる突き出た箇所があり、管絃祭の出御・還御はここから行われる。また他の社殿の束柱は木造だが、この平舞台を支えるのは、毛利元就によって寄進されたと伝えられる赤間石の柱。火焼前分と合わせると239本ある。

 

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高舞台(国宝)

 

本社祓殿前にある、黒漆塗りの基壇に朱塗りの高欄をめぐらし前後に階段をつけた舞台で、平清盛が大阪・四天王寺から移したという舞楽がここで演じられる。舞楽の舞台としては最小のもの。現在の舞台は1546年(天文15年)、棚守房顕によって作られたもので、当初は組立て式だったものが江戸時代初期に現在のような作り付け構造になったと考えられている。

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本殿(国宝)

 

厳島神社の本殿は「本殿」「幣殿」「拝殿」「祓殿」の「4つの殿舎」の構成で成っている。繊細かつ華麗な切妻両流造りで、正面には緑青塗りの引き違いの菱形の格子戸がはめられた本殿には、市杵島姫・湍津姫・田心姫の宗像三女神が祭られている。屋根に神社の定番とも言える千木と鰹木を持たず、桧皮葺の屋根に瓦を積んだ化粧棟のスタイルを取り入れた寝殿造りならではの様式が特徴。現在の本殿は1571年(元亀2年)、毛利元就によって改築された。f:id:Ryugnan:20191222180426j:plain

 

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内侍橋(国宝)

 

厳島神社の内侍橋は本殿の両側に2基ある。内侍橋の名前の由来とは、神饌を供進する際に内侍がこの橋を通ったことから、内侍橋と言う名前が付されている。内侍とは通例では、宮中で天皇に使える女官のことを指すが、厳島神社では巫女のことを内侍と呼称していたようである。従来の厳島神社の内侍は何十人といたようで、参詣した貴族の世話役や舞踊でもてなしていた。f:id:Ryugnan:20191222181523j:plain

 

西回廊(国宝)

 

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大国神社

大国神社は室町時代厳島神社の本殿へ御供を供進するための場所である御供所だった。元来、御供所として造営されていたことから、現在の大国神社の本殿には回廊に通じる通路が通っており、その奥に御祭神を安置する覆屋が一段上がる形で設けられている。f:id:Ryugnan:20191222181905j:plain

 

天神社

 

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長橋

厳島神社の長橋は、唯一、浜の中央部からの境内への出入り口となる。長橋は本殿裏にかつて存在したとされる神饌を調理する場所から本殿の神前へのお供え物の時に使用されていた。供進する手順としては、本殿裏の調理場所で神饌を調理した後、長橋を通って境内へ入り、一旦、大国神社へ供進した後に最終的に本殿へお供えされていた。f:id:Ryugnan:20191222182450j:plain

 

能舞台

 

国内でも唯一の海に浮かぶ能舞台。現在、重要文化財に指定されている国内5つの能舞台のうちの1つでもある。厳島での演能は、1568年(永禄11年)の観世太夫の来演がその始まりとされ、1605年(慶長10年)には福島正則が常設の能舞台を寄進。現在の舞台と橋掛及び楽屋が建立されたのは藩主が浅野氏に代わった1680年(延宝8年)のこと。この能舞台海上にあるため通常は能舞台の床下に置かれる共鳴用の甕がなく、足拍子の響きをよくするため舞台の床が一枚の板のようになっているのが特徴。春の桃花祭神能がこの舞台で演じられるほか、茶道表千家裏千家家元が隔年交互に執り行う献茶祭ではここでお茶が点てられ御神前に献じられる。f:id:Ryugnan:20191222181848j:plain

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反橋

 

かつては重要な祭事の際、勅使がこの橋を渡って本社内に入ったことから別名・勅使橋とも呼ばれた。現在の橋は、1557年(弘治3年)に毛利元就・隆元父子によって再建されたもので、擬宝珠の一つに刻銘が残っている。f:id:Ryugnan:20191222182401j:plain

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出口

 

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厳島神社の本殿は593年(推古天皇元年)の創建で約1400年の歴史がある。安芸国の権力者であった佐伯鞍職が夢の中で神託を受け、宮島の御笠浜の当地に伊都岐島神を創祀したことが始まり。その後の1168年(仁安3年)に、武士として初めて太政大臣となった平清盛は安芸守になったことにより、嚴島神社を厚く信仰し、現在のような寝殿造りの海上社殿を造営した。その後、1571年に毛利氏によって本殿の改築や反橋や大鳥居の再建など大規模な修復が行われた。以降、安芸の国の支配者が変わる度に、資金的な援助が受けられたり、得られなかったりと時代の荒波に揉まれながらも、何とか平安時代平清盛が造営した当初の社殿群の姿を留めている。f:id:Ryugnan:20191222183221j:plain


1400年の歴史を歩む過程で公式的に判明している大規模な本殿の修繕と造営はわずか2回のみであり、1回目の造営が1168年の平清盛、2回目の再建が1571年の毛利元就と伝わっている。f:id:Ryugnan:20191222183247j:plain

 

尚、現在の厳島神社の社殿群は、本殿・拝殿・回廊など6棟が国宝に指定を受けており、その他、14棟が重要文化財に指定を受けるに至っている。また、社殿群全体が由緒ある歴史的建造物として1996年(平成8年)に世界文化遺産として世界遺産登録も受けている。その他、この宮島自体が厳島として1923年(大正12年)3月7日に国指定の史跡名勝天然記念物にも登録されており、日本三景(松島・天橋立)の様相を飾る一角でもある。f:id:Ryugnan:20191222183310j:plain