伝通院@小石川・2020年7月9日

伝通院

 

文京区小石川三丁目の高台にある浄土宗の寺。正式名称は、無量山 伝通院 寿経寺。徳川将軍家菩提寺。江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所。f:id:Ryugnan:20200710164536j:plain

 

室町時代の応永22年(1415年)秋に、浄土宗第七祖の聖冏が、江戸の小石川極楽水の草庵で開創し、山号を無量山、寺号を寿経寺とした。開山は、弟子である聖聡の切望によるものという。本尊は、平安時代の僧・源信作とされる阿弥陀如来像。慶長7年(1602年)8月に徳川家康の生母・於大の方法名傳通院殿)が京都伏見城で死去し、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、大塚町の智香寺で火葬した。家康は、当初は菩提寺である芝の増上寺に母を埋葬するつもりであったが、「増上寺を開山した聖聡上人の師である了譽上人が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世観智国師の言上を受けて、伝通院の建立を決めたという。慶長13年(1608年)9月15日に堂宇が竣工。観智国師門下の学僧廓山が、家康から住職に指名された。f:id:Ryugnan:20200710165810j:plain

 

寺は江戸幕府から寺領約600石を与えられて、多くの堂塔や学寮を有して威容を誇り、最高位紫衣を認められ、増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所次席となった。増上寺・上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称された。境内には徳川氏ゆかりの女性や子供が多く埋葬されており、将軍家の帰依が厚かったとされている。幕末の文久3年(1863年)2月4日、新撰組の前身となる浪士組が山内の塔頭処静院で結成され、山岡鉄舟清河八郎を中心に近藤勇土方歳三沖田総司芹沢鴨ら250人が集まった。当時の処静院住職・琳瑞は尊皇憂国の僧だったため、浪士隊結成の場に堂宇を貸したと思われるが、後に佐幕派の武士により暗殺され、処静院は廃された。f:id:Ryugnan:20200710165557j:plain

 

山門

平成24年(2012年)に再建された。

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本堂

昭和20年(1945年)5月25日のアメリカ軍による空襲で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失した。昭和24年(1949年)に本堂を再建。現在の本堂は、昭和63年(1988年)に戦後2度目に再建されたものである。

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鐘楼堂f:id:Ryugnan:20200710165108j:plain

 

観音堂f:id:Ryugnan:20200710165131j:plain

 

於大の方墓所f:id:Ryugnan:20200710165305j:plain

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千姫墓所f:id:Ryugnan:20200710165409j:plain

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孝子の方墓所f:id:Ryugnan:20200710165540j:plain

 

清河八郎墓所f:id:Ryugnan:20200710165613j:plain

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善光寺坂のムクノキf:id:Ryugnan:20200710165908j:plain

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慈眼院

 

 

文京区にある浄土宗の寺院。創建年代は不明である。ただ1620年(元和6年)、「沢蔵司稲荷」の別当寺に指定されていることから、その頃までには存在していたと推測される。伝通院の学寮に沢蔵司という修行僧がいた。僅か3年で宗義を極めた。ある日学寮長の夢の中に現れ「余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて勉強をしたいと思っていた長年の希望ここに達した。 今より元の神に帰るが、長く当山(伝通院)を守護して、恩に報いる」と告げて暁の雲に隠れたという。そこで伝通院の住職は、境内に沢蔵司稲荷を祀った。

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善光寺

 

明治維新によって江戸幕府徳川将軍家は瓦解し、その庇護は完全に失われた。明治2年(1869年)に勅願寺となるが、当時の廃仏毀釈運動のために塔頭・別院の多くが独立して規模がかなり小さくなり、勅願寺の件も沙汰止みとなった。同じ浄土宗である信濃善光寺とも交流があった関係で、塔頭の一つ縁受院が善光寺の分院となり、以後は門前の坂が善光寺坂と呼ばれるようになっている。縁受院は明治17年1884年)に善光寺と改称して現在に至る。明治23年(1890年)に境内に移した浄土宗の学校をもとに淑徳女学校を創立した。また、明治時代になって墓地が一般に開放されるようになると、庶民の墓も建てられるようになった。 f:id:Ryugnan:20200710170548j:plain

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