善光寺(国宝)・2022年6月3日

善光寺

草創期を語る史料は残念ながら善光寺には残っていない。しかし、発掘史料や史書などから、いにしえの善光寺の姿をうかがい知ることはできる。7世紀後半頃には、かなりの規模を持つ寺院がこの地に建立されていたことがわかってきた。近代を迎え、交通網の発達とともに参拝者は増加し、今日では年間約700万人もの方々がこの地を訪れる。善光寺には約1400年という長い歴史があるが、その多くは市井に暮らす人々の思いと共に作られてきた歴史。今後も仏教伝来より続く善光寺信仰は、多くの参拝者により支えられ未来へとつなげられていく。本堂、山門、経蔵等が拝観できる拝観料は1,200円。

 

仁王門(登録有形文化財

宝暦2年(1752年)に建立されたが、善光寺地震などにより二度焼失し、大正7年(1918年)に山形村永田兵太郎翁の寄進により高さ約14m間口約13m奥行約7mのケヤキ造りで再建された。この門には善光寺山号である「定額山」の額が掲げられている。

善光寺参りの入口となるのがこの仁王門。仁王には仏敵からお寺を守る役割がある。正面には阿形像・吽形像、背面には三宝荒神、三面大黒天がいる。高村光雲米原雲海によって作られたこの仁王像は絶妙なバランスで製作されている為、支えを用いずその足で自立している。

 

仁王像 阿形

 

仁王像 吽形

仁王像並びに仁王像背後の三宝荒神・三面大黒天は共に近代彫刻家として著名な高村光雲米原雲海による作。仁王像は一般的な配置と逆になっています。右に吽形(総高617.2cm)左に阿形(総高595.1cm)が安置されている。

 

三面大黒天

仁王像の裏側には右に三面大黒天(総高367.7cm)左に三宝荒神(総高428.6cm)が安置されている。三面大黒天とは名前の通り三つの顔を持ち、左右に毘沙門天・弁財天、正面に大黒天の顔がある。大黒天は元々ヒンドゥー教の神であり戦闘の神として信仰されていたが、中国に伝わってから財宝の神となり、さらに日本へ伝わった神。日本ではその後、大国主命と習合して、五穀豊饒、商売繁盛、家内安全の神として信仰されている。

 

三宝荒神

三宝荒神とは日本特有の神であり、仏・法・僧の三宝を守護し、不浄を清める神、竈神、火伏せの神として広く信仰されている。善光寺は幾多の火災に遭っており過去の仁王門も火災で焼失している為、火伏せとして安置されている。

 

山門(重要文化財

江戸時代中期の寛延3年(1750年)に建立されて以来、大勢の参拝者を本堂に迎え入れてきた歴史ある門。様式は五間三戸二階二重門、屋根は入母屋造りの栩葺で、国の重要文化財に指定されている。弘化4年(1847年)の善光寺地震や、昭和40年代の松代群発地震などの影響で建物の基礎が損傷し、加えて全体の老朽化も進んだことから、平成14年(2002年)10月から平成19年(2007年)12月までの約5年間、山門としては初の大規模な修復工事となる平成大修理を実施した。これにより山門は従来の檜皮葺屋根から建立当初の栩葺屋根に復原され、国内に現存する最大の栩葺建造物として甦った。この修復後、約40年にわたって中断されていた二階への登楼参拝を、平成20年(2008年)から再開している。

 

鳩字の額

楼上には輪王寺宮公澄法親王筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられている。大きさは約三畳分ある。これは通称「鳩字の額」と呼ばれており、三文字の中に鳩の姿が五羽隠されている。更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われている。現在山門に架けられている額は平成大修理の際に作られた二代目であり、先代の額は現在史料館で見ることができる。

 

山門上からの眺め。

 

本堂(国宝)

善光寺は創建以来十数度もの大火に遭ったが、そのたびに善光寺を慕う全国の信徒らによって復興されてきた。現在の本堂は宝永4年(1707年)の再建で、江戸時代中期を代表する仏教建築として昭和28年(1953年)に国宝に指定された。高さ約29m間口約24m奥行約54mという東日本最大級の国宝木造建築で、衆生の煩悩の数と言われる108本の柱で造られている。本堂を上空から見ると棟の形がT字型になっており、この形が鐘を叩く撞木に似ていることから「撞木造り」と呼ばれている。屋根はヒノキの樹皮で葺かれた檜皮葺きの技法が用いられている。

 

御開帳

善光寺の御本尊「一光三尊阿弥陀如来」は、ひとつの光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ、善光寺独特のお姿をされている。白雉5年(654年)以来の絶対秘仏であり、鎌倉時代に御本尊の御身代わりとして「前立本尊」が造られた。普段は御宝庫に安置されているが、7年に一度の御開帳の時だけ、特別にお姿を拝むことが叶う。前立本尊中央の阿弥陀如来の右手に結ばれた金糸は五色の糸に変わり、白い「善の綱」として、本堂前の回向柱に結ばれる。その回向柱に触れることは、前立本尊に触れるのと同じこと。ここにありがたいご縁が生まれ、その功徳ははかりしれない。

 

回向柱

回向柱とは、御開帳時に本堂前に建てられる高さ約10mの卒塔婆。この柱は江戸時代より松代藩より奉納される慣しとなっており、現代においても、松代町のご協力により寄進され続けている。柱の正面には梵字で宇宙全体を構成する五大要素「空(キャ)風(カ)火(ラ)水(バ)地(ア)」と、御本尊である阿弥陀如来(キリーク)・観世音菩薩(サ)・勢至菩薩(サク)が記され、漢文で「前立本尊の厨子を開き奉る」と記されている。この柱は前立本尊と善の綱で結ばれており、参拝者が触れることで善光寺如来との縁が結ばれるとされている。

 

びんずる尊者像(本堂内部は撮影不可)

本堂正面から外陣に入ると最初に目にとまる像がびんずる尊者。お釈迦様の弟子、十六羅漢の一人で、神通力が大変強い方だった。お釈迦様から人々を救うことを命じられた説話から、いち早く駆けつけられるように外陣にいらっしゃる。俗に「撫仏」といわれ、病人が自らの患部と同じところを触れることでその神通力にあやかり治していただくという信仰がある。正徳3年(1713年)の安置以来300年以上の間人々に撫でられ、今は元のお顔が分からないほど磨り減ったお姿は、人々がそのお力にすがった信仰の証と言える。ミシュランガイドの3つ星にも選ばれている。因みに善光寺自体は2つ星。

 

戒壇巡り(本堂内部は撮影不可、写真は「参拝のしおり」から)

善光寺本堂の最奥に位置し、御本尊の真下を通る真っ暗な通路。一寸先も見えない暗闇の中を進み、途中の「極楽の錠前」を探っていく。この錠前は御本尊と結ばれており、触れることで直接ご縁を結べると言われている。

 

経蔵(重要文化財

宝暦9年(1759年)に建立された五間四方宝形造りのお堂。昭和49年(1974年)に江戸時代を代表する経蔵建築として重要文化財に指定された。中には八角の輪蔵があり、その中には全てのお経を網羅した一切経が収められている。輪蔵は元来、経典を収める書庫だが、腕木がついており、これを押し回すことで、中の総ての経典を読むことと同じ功徳を得るといわれている。重要文化財としては珍しく、参拝者にこの輪蔵を回していただくことが可能。

 

輪廻塔

経蔵の前には南無阿弥陀仏の六字が刻まれた石の輪を回す輪廻塔があり、その輪を回すことで功徳を積み、極楽往生ができると言われている。

 

日本忠霊殿

日本忠霊殿は明治39年1906年)に境内に建立され、昭和45年(1970年)に現在の三重塔構造に建て替えられた。戊辰戦争以降の240万余柱の英霊を祀る我が国唯一の仏式による霊廟。下層部には善光寺史料館が併設されており、かつて本堂に掛けられていた奉納額や絵馬、仏像等が展示されている。平成22年(2010年)にダライ・ラマ14世が来山した際に、開眼された砂曼荼羅もこちらに展示されている。

 

神風特攻隊碑

 

鐘楼(登録有形文化財

嘉永6年(1853年)に再建されたこの鐘楼は、南無阿弥陀仏の六字にちなみ、六本の柱で建てられている。屋根は大正15年(1926年)に瓦葺から檜皮葺へと変更されている。梵鐘は建物よりも古く、寛永9年(1632年)高橋白蓮により発願鋳造されたが、寛永19年(1642年)の火災により焼失、寛文7年(1667年)に再造立された名鐘であり重要美術品に指定されている。

 

ぬれ仏(延命地蔵

山門の南東にある大きな地蔵は、ぬれ仏または延命地蔵と呼ばれる。享保7年(1722年)に善光寺聖・法誉円信が、全国から喜捨を集めて造立した。江戸の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めたものという言い伝えがあるため、俗に「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれ火伏せの意味合いから通称「ぬれ仏」と呼ばれています。

 

六地蔵

ぬれ仏の南側に並ぶ六地蔵は、宝暦9年(1759年)に浅草天王町祐昌が願主となって造立されたが、昭和19年(1944年)に軍需物資のための金属供出に出された。現在の六地蔵は昭和29年(1954年)に再興されたもの。六地蔵とは、私たちが輪廻転生するといわれる地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界で、我々衆生を救ってくださる菩薩様。

 

如来堂跡(延命地蔵

仲見世通り中央西側に「如来堂旧地」という石碑と延命地蔵がある。この地は善光寺草創以来、本尊壇があった場所であり、延命地蔵は江戸神田恵念、覚念により現本堂落成から5年後の正徳2年(1712年)に造立された。弘化4年(1847年)の善光寺地震で焼損し、その後復興するも明治24年(1891年)に再び焼損、大正4年(1915年)に再興されたが戦争により供出された。現在は昭和24年(1949年)に復興された地蔵尊が安置されている。

 

大勧進

大勧進は、開山、本田善光公以来、代々善光寺如来さまにお奉えし、民衆の教化と寺院の維持管理にあたってきた。弘仁8年(817年)伝教大師最澄さま(762~822)、が信濃路巡化のみぎり、善光寺に参籠され、爾来、天台の宗風により今日に至っている。大勧進天台宗大本山善光寺25ヶ院の本坊であり、大勧進住職(貫主)は善光寺の住職も兼ねている。大勧進の寺名は、人々に仏法を説き作善をなすように勧誘策進する「勧進」を意味する。

 

大本願

大本願は、善光寺の創建(西暦642年)当初からその歴史を共にしてきた尼僧寺院で、代々の大本願住職、尼公上人が善光寺上人として、その伝統を継承してきた。現在は浄土宗の大本山で、山内には浄土宗の宗祖法然上人留錫の伝説があり、二祖聖光上人と三祖良忠上人とが善光寺如来の夢告により法縁を結ばれたり、浄土宗西山派の祖証空上人、前記良忠上人、その他数多くの浄土宗系の高僧たちにより信濃に念仏の教えが広められた。また、孫弟子、諏訪の蓮仏が北條時頼の帰依を受けて善光寺への信仰が広められ、善光寺信仰が大衆の心に大きく生かされた。

 

石畳

境内地入り口から本堂までの長さ約460m幅約8mに敷かれている石畳は、正徳4年(1714年)に江戸中橋の大竹屋平兵衛より寄進されたもの。古来より7,777枚あるといわれている。平兵衛は寄進後出家し「道専」と名乗り、そのお墓は善光寺山内の向仏坊の墓地に現存している。現在この石畳は長野市文化財に指定されている。

 

仲見世通り

石畳の両脇に商店が並ぶ通り。食事やお土産の購入などが出来る。この通りから本堂へ続く石畳はおよそ7,777枚あると言われ、善光寺の見どころの一つになっている。仲見世通りを北に進むと、源頼朝が乗った馬が蹄を穴に挟んでしまったと言われる駒返橋が見えてくる。