松本城(国宝)・2022年6月4日

松本城

戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ当時の松本城小笠原秀政も下総古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。

その後、大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の藩庁として機能した。水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。

1727年(享保12年)には本丸御殿が焼失、以後の藩政は二の丸で執務がとられた。1930年(昭和5年) 国の史跡に指定された。1936年(昭和11年)4月20日には天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の5棟が国宝保存法により当時の国宝に指定され、1952年(昭和27年)3月29日にはこれら5棟が文化財保護法によりあらためて国宝に指定されている。

 

黒門

一の門

本丸へ入る重要な入り口。この門を入るとかつては本丸御殿があった。本丸御殿に通じる格調高い正式な門という意味で、当時の最高の色調である黒の名を冠して「黒門」と呼んだと考えられている。

 

二の門と枡形

内堀を渡ったところにある門が高麗門。平成元年11月、この門とこれに続く控塀がつくられ、枡形が復元された。この控塀には狭間が切られ、対岸の敵に備えて火縄銃で攻撃できるようになっている。

 

天守(国宝)

松本城は標高590メートルの盆地内平地に位置している。平地に築かれた平城。城郭を囲む三重の水堀と土塁・石垣、出入り口や土塁の上に櫓や城門などを備えていた。三の丸内に武士を居住させて、防備を固めていた。現存する天守12城のうち五重六階の天守としては日本最古の天守。大天守と乾小天守、その両者をつなぐ渡櫓は、戦国時代末期に築造され、辰巳附櫓と月見櫓は、江戸時代初めに造られたと考えられている。豊臣秀吉の家臣、石川数正・康長父子により創建された大天守・乾小天守・渡櫓は、文禄2~3年(1593~4年)にかけて築造されたというのが松本市の公式見解。

 

乾小天守(国宝)

天守の北に位置する櫓。渡櫓で天守と連結されている。

 

渡櫓(国宝)

天守と乾小天守をつなぐだけではなく、天守への入口としての役目もある。

 

天守(国宝)

天守内部は6階だが、3階が屋根裏になっているため外からは5階に見える。

 

辰巳附櫓(国宝)

月見櫓と一緒に増築された。

 

月見櫓(国宝)

上洛の帰路に立ち寄る予定だった徳川家光に月見をしてもらうために造られた。実際には家光は来なかった。

 

城内部

武者走

 

石落

 

天守大棟の鯱

 

天守二階

 

武者窓と突上戸

 

天守三階

 

 

天守四階

 

天守五階

 

天守六階

 

東側

 

西側

 

南側

 

北側

 

辰巳附櫓二階

 

月見櫓

 

本丸御殿跡

天守築造と同時に建設されたと推定される。藩の正政庁で、城主の居館だったが、享保12年(1727年)閏正月朔日火事により焼失した。この時の城主は戸田光慈で、その前年享保11年(1726)、鳥羽から入封してまもなくのことだった。その後御殿は再建されることなく、城主の政務を司る場所は二の丸御殿に移った。

 

太鼓門

太鼓門枡形の一の門をいう。江戸時代は倉庫として使用されていた。明治初年に破却されたが、平成3年から発掘調査、同4年に石垣の復元を完了し、同11年に土台石の形に合わせて柱を削り、太鼓門が復元された。樹齢400年の檜、梁は140年の松を使用している。太鼓門の建設年代は明確ではないが、石川氏の時代には完成していたと考えられている。

 

二の丸御殿跡

 

埋橋