姫路城(世界遺産、国宝)・2022年9月10日

姫路城

姫路城は姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。1993年(平成5年)12月にはユネスコ世界遺産文化遺産)に登録された。

 

姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある。戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。

 

1928年(昭和3年)に姫路城は史跡に指定され、文部省の管理となる。次いで1931年(昭和6年)1月、大小天守など8棟が国宝に指定され、同年12月には渡櫓、門、塀等74棟も国宝に指定される。ただしこの時点での「国宝」は「旧国宝」と呼ばれるもので、1950年(昭和25年)施行の文化財保護法における重要文化財に相当するものである。

 

桜門橋

 

大手門(桜門)

現在「大手門」と呼ばれている大型の高麗門は1937年(昭和12年)に「桐二の門」があった場所に再建した門で江戸時代の意匠とは異なる。本来の大手口は入り口から桜門・桐二の門・桐一の門と続き、それらを三重の太鼓櫓・多聞櫓・ねの櫓で囲み、6回曲がらなければ天守方面へ行けない厳重な二重枡形を形成していたが、建物は明治時代の陸軍設置の際に取り壊されて現存しない。2007年(平成19年)に桜門橋を復元している。

 

菱の門(重要文化財

二の丸入口にある櫓門で現在では正面登閣口から入って最初に通る門。西側にある石垣と土塀で枡形虎口を形成し門の片側が石垣に乗る変則的な櫓門で、西側部分に番所詰所、東側部分に馬見所がある。城内の現存の門では唯一、柱・舟肘木・長押を表面に出した真壁造りで安土桃山時代の意匠を残している。櫓二階部分の中央に黒漆と金箔で装飾された格子窓と両側に同じ装飾の火灯窓、その右手に庇出格子窓がある。門名は冠木に木製の唐花模様が装飾されている事や築城以前に流れていた菱川に由来する。

 

はの門(重要文化財

 

はの門南方土塀(重要文化財

 

狭間の三角と四角

 

にの門(重要文化財

 

油壁

どこにあるのかわからんかった。

 

姥ケ石

 

水二門(重要文化財

 

水三門

 

天守(国宝)

外観は最上部以外の壁面は大壁塗りで、屋根の意匠は複数層にまたがる巨大な入母屋破風に加えて、緩やかな曲線を描く唐破風、山なりの千鳥破風に懸魚が施され多様性に富んでいる。最上階を除く窓はほとんどで格子がはめ込まれている。

 

地階

東西約11間半・南北約8間半。穴蔵と呼ばれている。簀の子の洗い場(流し台)と台所を付属させ、厠を3箇所設置している。武家の世界では多くの城で鬼門方位に厠をつくることが当時は常道とされていた、当城も裏鬼門に厠が配されていたとされ、鬼神の災いを恐れず覚悟を持った武将の気構えと捉えることができると述べている。

 

1階 

東西約13間・南北約10間。北側に東小天守と接続するイの渡櫓、西側に西小天守と接続するニの渡櫓。

 

2階

1階とほぼ同様の構造。地下から2階は身舎の周りに武者走りを廻し、鉄砲や槍などが掛けられる武具掛が付けられている。

 

3階 

東西11間・南北8間。武者走りがあるが、それに加えて破風部屋と武者隠と呼ばれる小部屋が数箇所設けられている。また、石打棚という中段を窓際に設けて、屋根で高い位置に開けられた窓が使えるように高さを補っている。

 

武者隠し

 

4階

東西9間・南北6間。3階同様に石打棚がある。武具掛けのある比翼入母屋破風の間が南北に2箇所ずつ(計4箇所)ある。

 

5階

東西9間・南北6間。大広間一室で4重目の屋根裏部屋に相当する。大柱はこの階の天井まで通っている。

 

6階

最上階。東西7間・南北5間。一段高い身舎周囲に入側を巡らしている。部屋の中央に柱を立てず、書院造の要素を取り入れ長押や棹縁天井など書院風の意匠を用いている。長壁神社が分祀されている。

 

天守(国宝)

3基の小天守の最上階は蟻壁長押、竿縁猿頬天井の書院風意匠になっている。釣鐘のような形の火灯窓を西小天守と乾小天守の最上階に多用している。火灯窓は同様の後期望楼型天守である彦根城天守松江城天守などにも見られる。乾小天守の火灯窓には、「物事は満つれば後は欠けて行く」という考え方に基づき未完成状態(発展途上状態)を保つため格子を入れていないという。火灯窓は昭和の修理が終わるまで漆喰で塗られて見えなかった。

 

西小天守(国宝)

3重3階・地下2階で天守丸の南西に位置する。水の六門が付属している。建設当初は未申櫓と呼ばれていた。2002年(平成14年)、西小天守の修理が完了した。

 

乾小天守(国宝)

3重4階・地下1階で天守丸の北西に位置する。建設当初は乾櫓と呼ばれていた。秀吉が築城した三重天守であったという説があり「昭和の大修理」では秀吉時代の木材が転用された事が分かっている。

 

東小天守(国宝)

3重3階・地下1階で天守丸の北東に位置する。西小天守や乾小天守のような火灯窓や軒唐破風はない。建設当初は丑寅櫓と呼ばれていた。

 

イ・ロ・ハ・ニの渡櫓
天守と各小天守を連結している渡櫓。イ・ロ・ハの渡櫓はいずれも2重2階・地下1階、ニの渡櫓は水の五門が付属して2重2階の櫓門になっている。天守群と渡櫓群で囲まれた内側に台所櫓があり大天守地階とロの渡櫓1階を繋いでいる。

 

ロの渡櫓(国宝)

 

ハの渡櫓(国宝)

 

備前

 

備前門石棺(重要文化財

 

帯郭櫓(腹切丸)(重要文化財

天守の南東にある帯曲輪は城の防御において射撃などを行う場所として築かれた。帯郭櫓は2重2階で1階2階ともに3部屋に区切られ、1階には石打棚がある。帯の櫓は1重1階(地下1階)で約23mの石垣の上にコの字型に建てられている。外側から見ると平櫓であるが地下に井戸があるため内側からは2重の多門櫓に見える。内部は座敷部屋や床の間も設けられている。太鼓櫓は1重1階で折れ曲がり西・南・北の3部屋がある。歪みのある石垣上に建てられたため西部屋は傾斜がある。江戸時代は「への櫓」と呼ばれた。太鼓櫓の西側には「りの門」があり帯曲輪と上山里曲輪を区切っている。「りの門」は脇戸付高麗門で「慶長四ねん大工五人」と書かれた墨書が発見されており、解体や移築の痕跡もなく木下家定の時代の建築と判明している。帯曲輪が俗に「腹切丸」と呼ばれる由来としては、建物の形状やその薄暗い雰囲気などから切腹の場を連想させることにより呼ばれるようになったと見られているが、通常では処刑場は城外にあり、藩主の屋敷付近や井戸付近では実際に切腹が行われたことは考えにくいという。

 

お菊井戸

 

ぬの門(重要文化財

脇戸付きの鉄板張り二重櫓門。一層目は鉄格子窓、二層目は出格子窓。東側石垣に巨石を置き鏡石としている。

 

扇の勾配

 

武者溜り

 

力の櫓(重要文化財

 

西の丸
西の丸は本多忠政が伊勢桑名から移ってきた時に整備・拡張された曲輪。北端に位置する化粧櫓及び櫓群と、これらを結ぶ渡櫓(長局)が残っている。

 

渡櫓(長局)

渡櫓の城外側は幅1間の廊下が「カの渡櫓」から「レの渡櫓」まで長さ約121間(約240m)に渡って連なっており「百間廊下」と呼ばれている。城外に向けて石落としや狭間、鉄砲の煙出しの窓も付設されている。城内側は侍女達の部屋があり主室と付属室などに区分され長局を構成している[45]。昭和の大修理の際に、草花模様で彩色した痕跡のある柱が発見されている。

化粧櫓
化粧櫓は、千姫が忠政の嫡男・忠刻に輿入れする際の化粧料10万石で1618年(元和4年)に建てられたものである。外観は二重二階、内部は畳が敷かれた座敷部屋が3室に区分され床の間がある奥御殿になっている。戦前の修理までは、化粧櫓にはその名の通り当時の化粧品の跡が残っていたという。

 

お濠