大阪城・2022年9月11日

大坂城

織田信長に抗していた石山本願寺の跡地を手に入れた豊臣秀吉は、全国統一の本拠地をこの地大阪と定め、天正11年(1583年)、雄大極まりない大阪城の建築に着手した。完成に約15年を要したその規模は現在の4~5倍という広大なものであり、本丸中央には金色に輝く天守がそびえていた。しかし、元和元年(1615年)、大阪夏の陣で豊臣家滅亡とともに大阪城はすべて焼失してしまった。江戸時代に入って元和6年(1620年)、徳川幕府大阪城の再建にのり出した。10年の歳月と幕府の威信をかけて再建された大阪城は、全域にわたる大規模な盛土と石垣の積み上げ、堀の掘り下げが行われ、天守閣も15m高くなるなど、豊臣秀吉が建築したものとは全く異なったものとなった。しかし、この天守閣も寛文5年(1665年)の落雷で焼失したまま再建されず、その他の建物も、大手門や多聞櫓などの一部を残して明治維新1886年)の動乱で焼失してしまった。昭和6年(1931年)、当時の市長関一の提案と市民の募金により天守閣の再建が行われた。太平洋戦争の空襲によりいくつかの建物が焼失し、天守閣も各所で破損したが、戦後の全域の公園化と、昭和33年から41年にかけて行われた櫓・蔵などの修復、そして昭和6年当時の天守閣の姿をよみがえらせるために平成9年に行われた「平成の大改修」により今日みられるような姿となった。

 

「太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ばれることもあるが、1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣大坂城)の遺構は、現在ほとんど埋没している。現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川秀忠が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川大坂城)の遺構である。1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるものであることが確定している。

 

現在は江戸時代初期から後期にかけて建てられた櫓や門、蔵など建物13棟および内堀と外堀が現存し、城跡は710,000平方メートルの範囲が国の特別史跡に指定されている。天守は1931年(昭和6年)に鉄骨鉄筋コンクリート (SRC) 構造で、徳川時代に再建された天守台石垣の上に資料の乏しい豊臣時代の天守閣を想像し大坂夏の陣図屏風絵などを参考に模擬復元された創作物であるが、築90年近い現在はそれはそれとして登録有形文化財となっており、博物館「大阪城天守閣」として営業している。

 

大手門(重要文化財

大阪城の正門にあたり、追手門とも書く。高麗門様式。寛永5年(1628年)創建、嘉永元年(1848年)修復、昭和42年(1967年)解体修理。

 

大手口桝形の巨石

 

千貫櫓(重要文化財

大手門を北から防御する重要な役割を果たした二層の隅櫓。名称は石山本願寺を攻めた信長軍がこの付近にあった櫓を攻めあぐね、「千貫文を出しても奪いたい」といわれたことに由来するという。元和6年(1620年)創建、昭和36年(1961年)解体修理。

 

多聞櫓(重要文化財

多聞とは松永久秀の居城「多聞城」の建物に由来する様式名。大阪城の他の桝形にもあったが、現存するのはこれのみ。下に鉄板張りの大門を備える渡櫓、南に折れ曲がってのびる続櫓からなる。合わせた面積は710平方メートル余り、高さは14.7メートルもある。寛永5年(1628年)ごろ創建。落雷焼失ののち嘉永元年(1848年)再建、昭和44年(1969年)解体修理。

 

南仕切門跡・太鼓櫓跡

 

六番櫓(重要文化財

ニの丸南面の南外堀の内側城壁には要所を固める隅櫓が7棟建ち並んでいたが、 現在では六番櫓とー番櫓だけが残る。六番櫓は寛永5年(1628年)造営で、徳川大阪城再築の末期にあたり、様式・手法などに初期の乾・千貫櫓とは違った特徴がみえる。昭和41年(1966年)解体修理。

 

桜門(重要文化財

戊辰の役(1868年)で焼失したが、明治20年(1887年)、陸軍の手で徳川時代の様式のままに復元された。昭和44年(1969年)解体修理。

 

銀明水井戸の井筒

 

蛸石
大阪城内第一の巨石は、縦5.5メートル、横11.7メートルといわれ実面積は約36畳敷という、とてつもない大きな石で、桜門枡形にある。岡山藩の池田忠雄によって寛永元年(1624年)の築造となる。

 

旧第四師団司令部庁舎

現在の大阪城天守閣と同じ昭和6年(1931年)、陸軍第四師団司令部の庁舎として建設された。鉄筋コンクリート造で、ヨーロッパの城を参考とし、左右対称の重厚な外観をあらわす。昭和20年の 第二次世界大戦終結時は中部軍司令部の庁舎だった。連合国軍による接収のあと、昭和23年から警察(大阪市警察局大阪市警視庁、大阪市警察、大阪府警察)の庁舎として、 昭和35年から平成13年(2001年)までは大阪市立博物館として使われた。平成29年に耐震補強ならびに外装・内装の修復や改装工事が完了し、現在は来訪者向けに土産物や飲食、 大阪城公園内の史跡に関する情報などを提供する 「ミライザ大阪城」として利用されている。

 

残念石


天守

昭和6年(1931年)。(登録有形文化財

 

大棟の鯱瓦 阿行(雄)

 

伏虎

 

金明水井戸屋形(重要文化財

天守台上にあり、昭和44年(1969)の解体修理のさい、 天守と同じ寛永3年(1626)の創建とわかった。

 

豊臣秀頼淀殿ら自刃の地

 

内堀

 

肥後石

 

西外堀

 

乾櫓(重要文化財

西の丸の西北(戌亥)隅を守る隅櫓。元和6年(1620年)造営の平面L字型、総二階造り(一階と二階の床面積が同じ)の珍しい櫓で、千貫櫓とともに場内最古の建造物。昭和34年(1959年)解体修理。

 

一番櫓(重要文化財

南外堀に面して二の丸南面隅櫓7棟のうち一番東に位置しているのでこの名がある。玉造門を側面から防御する役目をもつ。寛文8年(1668年)大改造され現在の姿となった。昭和40年(1965年)解体修理された。

 

大阪城御座船

大阪城の内壕を約20分間で巡る観光船。運賃1,500円。日本一高いとされる石垣が目の前に迫り、水面から見る天守閣は豪華絢爛。大阪城の美しさ、すごさを感じることができる小さな船旅。

 

豊国神社

豊臣秀吉、秀吉の子秀頼、秀吉の弟秀長をまつる。秀吉は慶長3年(1598年)に死去すると神格化されて「豊国大明神」となり、京都をはじめ各地に豊国社が建てられたが、豊臣家滅亡とともに姿を消した。復活の契機となったのは明治維新で、慶応4年(=明治元年、1868)に大阪へ行幸した明治天皇が再興を命じ、大阪では京都の豊国神社の分社として、明治12年に現在の大阪市中央公会堂の場所に創建された。大正元年(1912年)には現在の大阪市役所の場所、昭和36年(1961年)には大阪城二の丸南の現在地に移転した。同社の名称は、京都の豊国神社から独立した大正9年以降、豊国神社となった。

 

表鳥居

 

豊臣秀吉公像

 

手水舎

 

本殿・拝殿

 

石山本願寺推定地

 

蓮如上人袈裟懸の松